ロートアイアンの歴史

ロートアイアンの歴史

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鍛鉄の技術は、長い歴史と伝統における権威と格式の象徴です。

2世紀、鉄製建材はその美しさ・安全性によって驚きをもって迎えられました。

鉄本来の強さは、数々のセキュリティの目的-ドアの補強、窓枠、門扉、フェンス等-に、現在までの長きにわたって理想的であり続けています。また、そのデコラティヴな品質は、建築家を魅了してきました。

中世までのヨーロッパでは、その製法はただ鍛冶屋の知るところのみでした。その製法は叩き出しでのものであったため、全く同じ製品はあり得ませんでした。
1400年頃の技術革新の時代、鉄を鋳溶かすことが可能となり、型で製造する鋳物の生産が可能となりました。鋳物の発明によって、全く同じ製品の大量生産が可能となったのです。

往々にして、鉄製建材の製造年代や製作者は殆ど不明です。なぜかといえば、現在まで一握りの鍛冶屋の名前しか記録には残っておらず、製品にサインや紋章が入っていることも少ないためです。

古代・中世

古代の鉄製品は、鉄の相反する性質が明らかであった。即ち、強さとさび易さである。むきだしの鉄製品は、さびによってその姿をとどめていない。

紀元前3500年前頃の世界最古のロートアイアンの隕鉄から出来たと思われるビーズが、エジプトのギゼーで発見されている。ニッケル分が含まれる鉄、すなわち隕鉄を利用したと推測されるのは、ほかにも紀元前3000年頃のエジプトのジルザーの墓や、イラクのウルで発見された鉄器がある。



薪をたてかける台(FIREDOG)
ウェールズ国立博物館
紀元前50年から紀元後50年までの作品
また、紀元前1360年前のツタンカーメン王子の金の棺から鉄製の剣が発見された。鉄鉱石から鉄を製造する技術は、古代メソポタミアから出土した短剣によって紀元前2800年前に開発されたと思われる。しかしながら、アジア地域の本格的な鉄の生産工場は、紀元前1500年から2000年の間には存在していなかった。鉄の生産・加工技術は、紀元前1000年頃中近東からギリシャへ伝えられ、イギリスまで到達したのは紀元前500年頃と思われる。中国では、少なくとも紀元後6世紀に鋳物の技術が確立されていた。なお、鋳物の技術は、ヨーロッパでは中世まで知られていなかった。しかし、中国には叩き出しの技術は無く、中国の鉄工芸は西洋の影響ではなく、中国で独自に確立されたものと考えられる。

鉄は貴重な資源でありつづけ、何かしらの魔力があるとも考えられていた。鉄工芸の技術が比較的簡単になると、武器だけではなく、日常品にも使用されることとなった。北ヨーロッパでは、薪をたてかける台(FIREDOG)が数多く残っている(写真1)。他方ローマでは、紀元後1世紀には婚約指輪にロートアイアンを使用していたことが明らかであり、また、鉄の窓枠がポンペイやヘルクラネウムに残っている。複雑な装飾の鉄工芸品は、中世以前には殆どみられることが無い。それはおそらく、製造されなかったからではなく、朽ちてしまったからだと思われる。



13世紀/フランス オーヴェルニュ地方
中世のもっとも典型的なロートアイアン製品は、木のドアや金庫の保護に使われた。いずれも強度を必要とし、装飾の施されたヒンジが表面を覆い、同時にヒンジや保護面の役割を果たしていた(写真2)。
渦巻き装飾のヒンジは、出来る限りの装飾が施されている。尚、イギリスやスカンジナビアでは、中世のドアや金庫が昔のままに数多く残っている。最もレベルの高い渦巻き装飾のヒンジは、13世紀パリのノートルダム寺院のためにデザインされたものである。しかしながら、19世紀にはそのコピーが出回った。

13世紀の窓格子は、カンタベリー教会に残っているもののように、シンプルなデザインであった。花のような模様の装飾(渦巻き装飾の発展型)は、13世紀の窓格子に見られ、フランス、イギリス、ベルギーの教会に今でも残っている。最も有名かつ複雑な渦巻き装飾は、ウェストミンスターにあるエリナー城の墓を守る格子(1296年)にみられる。これは、トーマス=レトゥーンという1200年代後半の職人が設計・製作・施工したものである。王室会計を調べると、彼に支払われた金額は13ポンドであった。

また、良く使われたモチーフで、四つの花弁からなる花弁模様は、ヨーロッパ中のフェンス等でみられる。今も残る古いものは、イタリアのオルヴィエート・カテドラル(1337年)、フローレンスのサンタ・クロス(1371年)、シエナのパラッツオ・パブリコ(1436年:写真3)である。シエナのように、シート状の鉄から切り出した花弁模様は、13世紀のドイツで実用化された。ヒルデシャイム・カテドラル教会の門扉に使用されている。この花弁模様は15世紀にもっとも使用され、引き続き16世紀にも墓の装飾に使われたりしていた。



パラッツオ・パブリコ
シエナ、イタリア/1436年
この当時にしては、花弁模様が個性的である
15世紀には、鍛冶屋がその当時までに木や石で表現された過去のデザインを真似るようになった。ロンドンのウェストミンスター修道院に、ヘンリー5世の礼拝堂(1422年)の門扉がある。その門扉は、複雑な幾何学模様の装飾によって、驚異的な3次元効果を生み出している。この製作者は、王室の鍛冶屋であった、ロジャー=ジョンソンの手になるものであり、同様に王室の鍛冶屋であるジョン=トレシリアンはエドワード4世の礼拝堂に同じような門扉を製作した。いずれも、石や木のカーヴを表現した大作であった。今はウィンザーの聖ジョージ教会に残されている。

鉄は中世から18世紀にかけて金箱や貴重品箱に重宝された。それは、セーフガードという意味で、鉄の特長である。トーマス=ボドリー公(1545年~1613年)の貴重品箱は、彼の図書館に貴重品や金貨を納めるためにあった。その箱は彼の武具で装飾され、現在は募金箱としてオックスフォードにおいて使用されている。

建築において、鉄は長い間その機能的な目的に使用されている。すなわち、製材やレンガを支えたり、つなげたりという目的である。しかし、門扉やフェンスと違って、装飾のためのものであったせいか、中世初期の建築物には殆ど使われていなかった。鉄工芸のバルコニーといったような装飾性のあるものは、14世紀のイタリアに初めて現れた。ごく初期の例として、現在バーミンガム美術館に収められているカーサ・バルトロメオのヴェネツィア宮殿のバルコニーが挙げられる。また、装飾の施された家具も14世紀のイタリアで製作されている。例えば、ランタンのホルダー、ドアノブ、ハンドル、フックというものであり、現在でもシエナやフローレンスに残されている。

昔から、蝋燭立てとかシャンデリアといった家具は普通に鉄で作られていた。しかし、最も多く使われたのは暖炉周辺や調理器具であった。前に紹介した薪立てや鍋、鋤、鍋敷きなどは全て鉄で作られ、しばしば装飾的かつ実用的でもあった。現在も残されているものもあるが、正確な製作年代を知ることは不可能である。

16・17世紀


[写真1]門扉 ロートアイアン
スペイン/1523年
ルネサンス様式/ブルゴス聖堂
16・17世紀でさえ、ルネサンス様式は生産者によって支持されつづけていたのである。イタリアにおいてさえ、16世紀になって台頭しつつあったゴシック様式にようやく方向性を見出していた。

16世紀、イタリアではポスト=ゴシック様式ともいうようなデザインが生まれていた。スペインでは15世紀から16世紀にかけてデコラティヴな装飾を発展させていた。バルセロナに見られる聖堂や教会の巨大な門扉(中には30フィート!もの高さ)に象徴され、しかもエンボスや銀細工まで施されたものもある(写真1)。



[写真2]門扉の部品
スペイン/16世紀
エンボスと塗装
巨大な門扉こそ、16世紀のスペインの特徴である。鉄より柔らかい金属を扱うには、優れた技術を必要とした。スペインの鍛冶職人にとって、その技術の難解さにも関わらず、金塗・銀塗・カラーリングを施す装飾方法はポピュラーなものになっていた(写真2)。



[写真3]暖炉の背壁
鋳物 オランダ/1650年
オランダ独立の記念。オランダの国境付近に見ることが出来る。ライオンは連邦を表し、1つの権威に統合されることを象徴する。
17世紀の多芸なイタリアの鍛冶職人は、鉄をリボンのように曲げたり、丸・四角の棒を多用した。
17世紀には、政治的なテーマもデザインに取り入れられるようになってきた。写真3の暖炉の背壁は象徴的で、三十年戦争の後にウェストファリア条約(1648年)によって独立を承認されたオランダのものである。
南ドイツ及びスイスでは、大きな教会、例えばチューリッヒのカテドラル、南ドイツのアウグスブルクの聖ウルリッヒ教会に見られるように、建築の装飾効果をねらったスクリーン類が盛んであった。また、ドイツでは錠前屋の技量に優れ、特にニュルンベルクが生産した錠前は全ヨーロッパ中に輸出された。
フランスではゴシック様式が根強く残っていた。国王フランシス1世・アンリ2世の肝いりで出来た錠前屋の専門学校が、ルネサンス様式を支持したにもかかわらずに。1610年から始まるルイ13世の統治時代、ルネサンス様式を採用し、国王が自らを”アマチュアの鍛冶屋”と称し、テュイルリー宮殿、フォンテーニュブロー宮殿を施工した。

18世紀


バルコニーデザイン
フランス/1752年
ロココ様式 オテル・ド・ビラ
18世紀は、鍛冶屋にとって至福の時代であった。ヨーロッパ全土での産業革命の結果、中産階級が出現したからである。新しく建設される公園や急増する住宅に、ロートアイアン建材は大量に供給された。

その当時製造されたロートアイアンは、現在もイギリス、特にオックスフォードやケンブリッジに数多く残されている。しかしながら、現在ではその当時の色遣いを知るよしもない。幾多の塗り替えによって、塗りつぶされてしまったからだ。それでも、紺色・灰色・緑・白という色がよく使われていたことがわかっている。また、その様式はシンメトリーが多用されている。



門扉
イギリス/1767年
ロートアイアンと鋳物の混合
ヨーロッパ全体では、各地方独特のデザインを発展させていった。ドイツ語圏では、精巧な葉とそれに絡む棒という伝統的なモチーフが流行していた。しかし、この世紀の最も革新的な発明であるロココ様式が、1720年代フランスに誕生した。フランスとドイツの鍛冶屋は、壮麗だが逆説的に効果のそれほど重くないデザインに心血を注いだのである。他方、ロココ様式はイギリス人には殆ど受け入れられなかった。

18世紀の終わりに向けての古典的な様式の復活が、デザインの複雑化に歯止めをかけた。鋳物の登場である。急増する建築需要の最中、砲を鋳造する技術が建材に転用され、安価に大量に、ネオ-クラシックとも言うべき没個性的な製品が大量に供給されたのである。
産業革命によって、人々の生活・デザインが大きな転換点をむかえた。

19・20世紀


[写真1]アントニオ=ガウディ作
1888年
バルセロナ/スペイン
北米、特にニューヨーク州で1845年から1880年にかけて、鋳物が流行した。
そのスタイルは、ゴシック、ルネサンス、クラシックと多種多様な製品が使用された。残念なことに、多くは火事によって消失し、今もその面影を残すものはマンハッタンのNEW YORK MERCHANDISE CO.という建物だけである。元々そこは、百貨店であった。

1850年あたりのヨーロッパでは、鋳物の猛威を前にロートアイアンの良さが再認識され、歴史的な建築家サー・ジョージ・ギルバート・スコットなどが教会のリフォームに好んで使用した。1862年のロンドンにおける万国博覧会では、中世に触発されたロートアイアン製品が多数出展された。



[写真2]ヴィクトール=オルタ作
1900年
オルタ博物館/ブリュッセル ベルギー
1890年から1914年にかけては、アール=ヌーヴォー旋風がヨーロッパ中を支配した。ヴィクトール=オルタはアントニオ=ガウディ(写真1)と並び代表的な建築家である(写真2)。1914年に勃発した第一次世界大戦中、ロートアイアンのデザインに目立った活動は見られなかったが、1920年代の建築ラッシュ時にはさらなる発展を遂げた。エドガ=ブランツを筆頭とするネオ=ゴシックとは、幾何学的模様にアール=デコの花や草花の装飾を施したものである。

第二次世界大戦は完全にロートアイアンの需要の息の根を止めた。モダンデザインの流行は、建築からロートアイアンの居場所を奪った。ポスト大戦では、モダンビルのわずかな装飾部分に使用されるのみとなり、ほんのわずかのデザイナーの興味をひきつけるにとどまった。

1970年位から、再びロートアイアンが注目されている。家具の分野で復活してきたのである。代表的にはマンフレッド=バーグマイスター(ドイツ)やヤン=デュデセック(スイス)、イギリスのトニー=ロビンソン(ウィンチェスター城の改修)、ジム=ホロビンが挙げられる。建築物では、1985年のロンドンの国立ウェストミンスター銀行が多くのロートアイアンを使用し、人々を魅了している。

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